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「スニーカーダンサー」
「スニーカーダンサー」って高中正義の曲がきて、詞をつけたのを覚えてるね。アルバムのタイトルにもなってるけど、ジーパンとかスニーカーとか、そういう若さのシンボルを曲にしたかったんだよね。
「事件」
相撲のやつですね。お相撲は前から見てて、これは日本の特徴なのかもしれないけど、ああやって花道から引き上げてくるとき、みんなが触りたがるわけだよね。ああいう異常な体格っていうのを。でもちょっと触ってみたいっていうあの日本人の気持ちはわかるんだけど、いくら触りたくても、他人が触っちゃいけないよね。それで、外国なんか、プロレスと比較しちゃおかしいのかもしれないけど。例えば比較して、さすがに向こうはガウンを着てくるな、このガウンっていうのは、やっぱり他人に気安く触らせないような意味もあるのかなぁなんて思って、ちゃんとプロテクトするんだなぁって。それだけ西洋の文化というのは個人主義だし日本というのはそこらへんホントに開けっ広げで、気安いっちゃ気安い。人の心まで体まで、どんどん他人が入り込んでくる大変なところなんだな、なんて思ったりして。この曲は詞をささっと書いて小室さんに「こんな詞ができたんだけど、ちょっと自分じゃ曲作るのに手に負えないから、字余りとか字足らずとか小室さん、得意でしょ?」なんて持っていった記憶がありますね。それで小室さん、典型的なジャマイカのレゲエみたいな感じで仕上げてきた。
「今夜」
「今夜」って曲は今でも大好きだね。これも珍しく詞だけ読んでも成り立ってると思うんです。だいたいアーティストとか作家って、自分の作品なんか褒められるのは、基本的に気持ちのいいことで、それがどんなに的外れでも的を射ても気持ちいい。竹田青嗣さんだったと思うけど、「つまりこの曲っていうのは男と女が出てくるんだけど、何か愛について歌ってるわけじゃない、不思議な歌だ」っていう評論があって「あ、面白い見方だな」と。この曲は今でも自分でもうまくできてるなぁって箇所が三、四カ所あって、「金を探しに旅に出ようか今夜」っていうところも“大事なことなんて何もないんだから、ちょっとお金を探しに”みたいなね。でも聞けばこの“金”が鳴らす“鐘”を探しにみたいに聞こえるらしい。それから、「君に触らずどんなKissをしようか今夜」っていうのも、悪くないフレーズだよね。どうしてこんなことが出てきたのか、ちょっとわからないんだけど。コンサートで弾き語りでやる曲は何にしようとかって時は、この「今夜」とか「いつのまにか少女は」とかって、候補になるよね。
「なぜか上海」
よくコンサートで歌うし、僕の音楽好きな人はこの曲を好きになってくれる。これはやっぱり、自分が九州ってところで生まれて、子供の頃から戦争中の話とか戦前の暮らしに興味があって、例えば芸者とお金のない若者が恋に落ちて、その芸者には旦那がいて、ほとんどお金の鎖でつながれてるわけだけど、やっぱり愛の方が強くて、その若い男とデキちゃってトンズラする。その行き先が上海だっていうような話を聞いて、「そういうことがあったんだろうなぁ」なんて思って。ルールの中でみんな暮らしてるけど、そのルールからはみ出る人もいて、そういう人達が落ち着く先のひとつとして上海があったのかなぁって思って、なかなか象徴的な場所だなぁって。さっき「ダンスの流行」であのメロディが出てきたときは宿題が解けたような気分だったっていったけど、この曲も“♪そのままもそ、もそ、も、もそっと.....”という、こういう譜割りでもって、こういう形で日本語乗せた時は、何かひとつ宿題解けた、「あ、やったっ!」みたいな気持ちになったの覚えてる。それからこの曲、一度、吉見佑子さんから“♪流れないのが海なら それを消すのは波です”ってとこ、「やるわね! 陽水さん!」て。言われたの覚えてるよね。だからここを歌うたびに、吉見佑子さんの顔が出てくる。
「フェミニスト」
何かちょっと複雑な自分の気持ちをうまく表現できないんだけど、自分が歌を作って歌ってる立場の人間で、だいたい“隣の芝生”っていうのはすごく綺麗に見えて、それは例えばピアニスト、ギタリストとか、そういう人達っていうのは、「夜中、悶々と詞を考えたりしなくて、飲んでいい調子なんだろうな」なんて、つい思っちゃう気持ちが、これ、どっかに入ってるよね。たとえば高中正義とか、ある種天才少年的な登場の仕方をして、ベースもうまいしギターもうまいし、最初に知ったときは「とんでもない人が出てきたなぁ」って、憧れの隣の芝生でね、もちろん彼も飲んだくれてばかりじゃなく、家に帰れば作曲したり練習したりするんだろうけど、そういう側面が全然見えなくてね、しかもギターならそのまま外国にも行けるし、日本語の歌は外国では何言ってるのかわからない。だから「フェミニスト」の中に出てくる“いつも言葉を探しているような男は嫌いなタイプ”だっていうのは自分の気持ちを女の人に言わせてるようなところがあるんだよね。そういうキッカケがこの歌にあるけど、「二番をどうしようかな」ってなると、ピアニストがエベレストになって、訳わかんなくなっちゃう。ピアニストが出てきて歌作り始めて、エベレストにきて、最終的にフェミニストになっちゃって、それでタイトルが「フェミニスト」になった。
「娘がねじれる時」
自分の曲で【A】を付けられる曲で、これもしょっちゅう、コンサートで歌うしね。この曲を歌ってて、特に三番になって、“♪娘には父親が五人も居たが 父親の会社には守衛も居ない 情熱と生産は反比例をし 社長には八人も愛人が居た”ってところになると、いつも歌ってて前のめりになっていくっていうか、ずーっと他はぼんやり歌ってるけど、ここは「ちょっとみんな、よく聴いてよ!」みたいな気持ちになって歌ってるんですよね。
「海へ来なさい」
子供ができる前の作品で、別にすぐ子供ができるからこんな曲作らなきゃいけないと思ったわけじゃなくて、子供ができたからこういう歌を作ったという普通のパターンがあるんだけど、そういうパターンて大嫌いだっていうか、子供ができたから子供に向けて歌うっていうのは何かちょっと自分じゃ嫌だなと思ったから、「そんなの子供ができなくたって作れるよ」っていう思い上がった気持ちがキッカケで作った歌ですね。あ、でもそんなこと言うと、いままでこの曲を恋人から言われてるように思って聴いてた人に失礼かもしれないけど。
「勝者としてのペガサス」
よく歌う曲ですね。筑紫哲也さんが昔日曜日の夕方六時から10チャンネルで報道番組やってて、まだその時は筑紫さんは朝日新聞の記者やってたんだけど、その第一回目の放送の時、「ぼくはなぜテレビのキャスターをやるか」という説明があった。「井上陽水という人間の“傘がない”の中で“♪テレビでは我が国の将来の問題を 誰かが深刻な顔をして しゃべってる”ていうフレーズがあるんだけど、確かに日本の報道というのは、社会的なニュースを、おどろおどろしく硬く神経質に深刻にしゃべる傾向がある」って、そんなふうに彼が言ってね、「何かそれじゃいけないんじゃないか」って。だからこの番組を僕は引き受けることにしましたっていう、そういうスピーチがあった。僕は昔からニュース・ショーって好きでしたから、その筑紫さんの番組もずっと見ててね。何年間かやって、番組が最終回という時に、「勝者としてのペガサス」を番組で歌ったんですよね。その時にね、この歌の“♪あんまり話題もないが 最後にこれだけ言おう 気をつけて どんな天気でも”ってとことか、妙に膨らみを持った印象で僕も歌えたし、テレビを見てた人も感じてたと思ってね。その証っていうのは、また沢木さん出てくるんだけど、このシーンちゃんと見てて、何か文章にしてるよね。